尾崎豊の歌詞解釈:僕が僕であるために

あたりまえだが主観的な解釈ry

社会や世の理のしがらみのなかで「自分」を持ち続けねばならないというメッセージを持った曲。

 

心すれちがう悲しい生き様に ため息もらしていた

ここからこの世が人とのしがらみをバックグランウンドとしたネガティブな要素で構成されていることを説明している。イメージとしては性悪説や仏教の煩悩。ため息〜 はそのことに憂いている自分。

 

だけど この目に映る こので僕はずっと 生きてゆかなければ

街というのは社会や世の中のこと。人は一人では生きていけない。心すれ違う悲しい生き様を逃れるために一人で生きようとしても、それは不可能なことである。

 

人を傷つける事に目を伏せるけど

もっとも難解なパート①

目を伏せるというのは避けるということで、元来人は人を傷つけようとして生きているというわけではないということ。

 

優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく

もっとも難解なパート②

優しさを口にするの口にするの部分は隠喩であり、優しさが真心ではなく、いっている、口にするだけのごく表面的な優しさを表している。空気読む的な優しさ。

 

人というのは自分と他人であり、それぞれに対して傷ついていくの意味合いが異なっている。

1.自分にとっては

傷つけたくないというのは別の意味では人を傷つけることをしたくないという自分自身の欲望であり、最終的には他人ではなく自己中心的な利益を率先しているということ。それをわかっている自分にため息をもらし、苦しんでいる(傷つく)。

2.他者にとっては

他者の気遣いや優しさに触れ、それが表面的な優しさであると気づいた時に、自分に対する不完全性への情けなさと同時に、相手が上辺だけで真心で接していないことに対する不満がでてくる。表面的な優しさといったが、それは他者からしてみれば自身が傷つかないようにフォローしてくれた優しさなわけで、なんで本当のことを言ってくれないんだという気持ちと優しさ(フォローというおもいやり)に対して真摯に受け取らなければという気持ち(真心)の二つの対立した気持ちの葛藤がでてくる。しかしながら、なんで本当のことを言ってくれないんだという気持ちは自分のエゴであり、元来他者のせいではなく他者に向けるものではない。だから、その欲望を持つ自分に対してもため息が出てくる。二番の、人は皆わがままだという歌詞もこれにつながっている。

 

僕が僕であるために 勝ち続けきゃならない

サビ。AメロとBメロが世の中の憂いを表しているのに対して、サビではその世の中でどのように生きていくかということを提示している。僕が僕であるためにというのは抽象的な歌詞の中でも特に抽象的だが、いままでの歌詞と勝ち続けなきゃならないという部分で意味がおおよそ推測できる。「僕」のイメージとしては自分らしさや芯、アイデンティティー、真心などのコア的なもの。勝ち続けるとはすなわち負けてはならないということであり、一度の没滅も許さないことで、つまり、自分の真心、自分らしさを守るために負けてはならないという意味である。勝ち続けなければならないのは自身を含む人の醜い欲望であったり、人とのしがらみであったり、僕が僕でなくさせられるようなものだ。

 

①正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで 

②僕はにのまれて 少し心許しながら この冷たいに 歌い続けてる

①と②は大きく倒置法が使われているので、①の意味を見る前に先に②部分から見ると分かりやすい。僕は街にのまれての街とは前述したように社会そのもの、社会にinしている様子。少し心許しながらは解釈がふた通りある。一つは社会や人の煩悩に妥協するという意味で、もう一つは人や社会に融和していこうという意味。尾崎の生き方などから考えるとおそらく前者の方が意味が近い。この冷たい街の風にはそのままで、温かみの無い現実的な社会の風当たり(辛さ)。歌い続けてるは前の部分の風にがポイントで、社会という風に抗うように歌う、つまり生きるという意味。

 

①正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで

②の部分では生き方が示されているので、①の部分では生き方に関わる修飾であると考えられる。よって生き方と正しいものとくれば真理と解釈するのが一番適当かと思われる。

 

まとめ

尾崎豊は世の中を楽観的にみようとはせず、世知辛いものとして受け止めている。しかし人に宿るもの(コア)には希望を持ち続けており、サビ以降では僕を守りながら正しいものを探し続けるという強い決意と覚悟がみられる。それらの歌詞とメロディの起伏が非常にシンクロしており、非常にエネルギッシュな曲に感じさせられる名曲である。